創成期の詩人像 時代は改まり、かくして『新体詩抄』の理屈弊風論を一蹴するような新体詩学が声高に唱えられることになる。詩人になるためではない。作品発表のためである。特化した詩学である。それが植村正久にあっては詩人として認めるための条件となる。そして詩学も彼等とは異なっていく。あらためて辿る。

創成期に位置する者のうち、正統の側に位置する者(ただし主に『新体詩抄』『新体詩歌』関係者)をかりに適当ではないが「正統詩人」とすれば(後述では実体的に言い換える)、その詩学は、「精密ニ我衷情ヲ攄ベ我思想ヲ掞スルコト」(尚今居士「鎌倉の大佛に詣でゝ感あり」序言)にあるとおりで、そのためには「敍事ヲ主トシ、議論ヲ専ラニシ」も厭わない。この点で植村は、『新体詩抄』等の族すなわち正統詩人の考えに近い。実際、『新体詩抄』への植村の評価は、当初から高い(註一)。しかし、彼が最初の詩人と認めたのは、異端の側に立つ友人湯浅半月こと湯浅吉郎であった。繰り返せば、半月が、植村にとってもう一方の詩人の条件ともいうべき「詩情ヲ養イ(a)」を併せ持った詩を作ってみせたからである。

この点、正統詩人の詩学は、旧態(和歌・漢詩)を離れるのに忙しいため「詩情」には一体に淡白なのである。そのために粗雑になりやすい。「吾人日常ノ語ヲ用ヒ少シク取捨シテ試ニ西詩ヲ譯出セリ(略)其詞藻ノ野鄙ナルヲ笑フナカレ」(尚今居士「グレー氏墳上感懐の詩」序言)。かくのとおりそれがために嘲笑の憂き目に遭っても「俗語」「日常ノ語」「平常ノ言語」のためにはときに韻文の破格・破調も厭わない。「詩情ヲ養イ」としてはとうてい認め難い、陸続たる詩句詩行の排出も散見されることになる。一例を引いてみよう。

 

 眠むる心ハ死ぬるなり    見ゆる形ハおぼろなり

 あすをも知らぬ我命     あハれはかなき夢ぞかし

 などゝあハれにいふハ悪し

 

 我命こそまことなれ     我命こそたしかなれ

 墓ハ終りの場所ならず    人ハ塵にて又散ると

 いふハからだのうへのこと

        (巽軒居士(井上哲次郎)「玉の緒の歌(一名人生の歌)」)

 

掲げたのは、『新体詩抄』中の創作詩の冒頭部分である。このような陳腐な人生訓あるいは安っぽい哲学の開陳を目の当たりにさせられたのでは、当然に植村の言は厳しくならねばならない。

 

今ヤ百度更革ノ際文學ノ氣運漸ヤク一變セントスルニ當リ學者往々詠歌 ノ事ニ注目シ議論稍喧シカラントス然レドモ或ハ美妙ヲ棄テヽ鄙俗ニ流ル倨然新詩体ト稱スルモノヽ如キ是レナリ(同上「序」)

 

それが半月に対しては、「余ハ今日ノ如キ茫々タル詠詩ノ沙漠ニ此作アルヲ見テ欣喜措ク能ハザルヲ覺ユ」の賛辞となる。その詩の冒頭「荒野(あれの)」の詩篇のほんの一部を掲げれば、

 

 水枝さす楓のわか葉

 影見えて池のほとりの

 すゞしさに驢馬引とゞめ

 休ふハ母にやハあらぬ

 その子かも十二のいしを

 ゆびさして誰の記念ぞ

 こハ何ぞその故あらば

 志らまほし志らしめたまへと

 問ひし子の顔ミてえミつ

 たらちねの母のうれしさ

 

のとおり、「詩情」に通う調べに趣きを添え、淀みなく連綴した詩行には一部の隙も与えない。しかも構えるのは、「史詩(エピック)」である。詩情だけで終わるわけではない。骨太の骨格を具えているのである。植村が「欣喜措ク能ハザル」は、なにも知己故の贔屓目に見た賛辞ではない。客観的に自己の詩学(思想と詩情の融合)に適う故の称揚であった。

 

 
(註一)植村の手紙は次のように期待感を籠めて語られる。「近時東京大学ノ諸士申シ合ハセテ新様ノ歌ヲ作リ、日本ノ歌学ヲ一変セントノ結構アリ。(略)僕ハカネテヨリ此ニ意ヲ注ギ居タルモノカラ、大ニ其美挙ヲ喜ビ二三ノ作例ヲ得テ之ヲ読ムニ、野卑ノ態ヲ免レズトイヘドモ、其進路ハ正鵠ヲ失タマズト云フベシ」(鈴木亨「明治詩史」)と綴る。

 

湯浅半月

 

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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