叙情詩人の誕生 一気に一〇年以上飛ぶ。明治三〇年へである。この間の推移は、先に辿った詩人観のそれで代弁する。明治三〇年に飛ぶのは、詩人観の内在化を容れないままに植村の詩学(「詩情ヲ養イ)を身勝手に引き継ぐ者が現れるからである。誰かと言えば、一人は島崎藤村である。『若菜集』の「逃げ水」は、よく知られているように植村訳の新撰讃美歌(第四番)の調べ(詩情)を基調にした変奏である(鈴木一九五一、一三頁)。詩人(抒情詩人)であることが自己に許した技(パロディー)であるが、明治三〇年になると、いよいよ心得のある者は、自らを「詩人」と誇らかに称するに吝かでなくなる。

そのとき彼らを支えるのが「詩情」である。かつて植村が説いたものである。詩情は、まるごとの詩想となったのである。植村のもとでは二つの内の一方でしかなかったものが、ここにきて一つになる。止揚の上になった統一ならともかく、一方の脱落である。しかも脱落だと思わない強みが、彼等の詩論(ここで「詩論」と言うのは創成期の「詩学」に対する意図的な言い換え)を揺るぎない自信に変える。『抒情詩』(明治三〇年)収載個人詩篇の序文からその一部を引いてみよう。

 

詩躰につきては余は甚だ自由なる説を有す。七五、五七の調も可。漢詩直譯躰も可。俗歌躰も可。漢詩を用ゆるの範圍は廣きを主張す。枕詞を用ゆる、場合に由りて大に可。たゞ人をして歌はざるを得ざる情熱に驅られて歌はしめよ。此の如くなれば、其外形は散文らしく見ゆるも、瞑々の中必ず節あり、調あり、詠嘆ありて自から詩的發言を成し、而も七五の平板調の及び難き逎勁を得。余は此確信によりて『山林に自由存す』を歌ひぬ。(国木田哲夫「獨歩吟」の「序」)

 

 

ここに読みとることのできるのは、国木田独歩のまさに「確信」に置き換えられた詩論である。いまやかつて『新体詩抄』が意図的に遠ざけていた伝統的詩歌への抵抗感もない。これも確信の範疇である。韻律も恣である。スタイルにも拘らない。散文調への促しさへある。しかし「思想」の入り込む余地はない。あるのは、「節」「調」「詠嘆」のみである。

根本が違う。「思想」と言ってもなにも「節」「調」「詠嘆」を一律に斥けるわけではない。おおいにその効用を活かす。しかし「自から詩的發言を成し」のくだりには背かなければならない。感性の赴くところが「自から」の仕法なら、感性自体を異なる言語体系で再検証する仕法が「思想」である。思想とは「自から」の疑義である。なにも体系性だけを拠りどころとしているわけではない。しかも疑義はいまだ詩語の手前にとどまる。詩語への転換を伴う二重作業を要するのも「思想」である。「思想」が形となったものの一つが、この時代なら叙事詩である。

植村が求めたのは、この二重作業を潤うし深める詩情である。内と外との自己撞着をも「節」「調」「詠嘆」にしてしまう詩論の到底望みえないところである。実は国木田独歩は、信仰上の私淑もあって植村正久の門に育った一人である(鈴木一九六九)。したがって植村の「詩情」は出発点であった。しかし同時に終着点だった。いつしかそうなってしまったのである。植村にとってもう一方(「思想」)があってのそれ(詩情)であったものが、独歩では一方のみとなる。それはかりに飛行機に喩えれば、一方が停止してしまっても飛行が可能な双発機と単発機との違いを思わせる。単発の飛行機では、空に描く機影も自ずからに異なる。独歩機は単発である。

参考までに自ら言うところの自信作を掲げておく。植村の詩情が終着点でしかなかったことが再確認されるだろう。

 

   山林に自由存す

 

 山林に自由存す

 われ此句を吟じて血のわくを覺ゆ

 嗚呼山林に自由存す

 いかなればわれ山林をみすてし

 

 あくがれて虚栄の途にのぼりしより

 十年の月日塵のうちに過ぎぬ

 ふりさけ見れば自由の里は

 すでに雲山千里の外にある心地す

 

 眥を決して天外を望めば

 をちかたの高峰の雪の朝日影

 嗚呼山林に自由存す

 われ此句を吟じて血のわくを覺ゆ

 

 なつかしきわが故郷は何處ぞや

 彼處にわれは山林の兒なりき

 顧みれば千里江山

 自由の郷は雲低に沒せんとす

 

ここには「自由」の文飾はあっても、「自由」の解釈はない。「自由」と一つの関係下におかれる「山林の兒なりき」は、比喩関係で言えば、「自由」の比喩であってもほとんど直喩の域をでない。しかし隠喩(解釈)であるべきである。提案する。「山林に自由存す」に叙事を容れる必要があるのではと。

かく勧めるのは、独歩が次のように「叙事」を難ずるからである。「新躰詩を以て叙事詩を作ることは必ず失敗すべきを信ず。(略)故に初より覺悟して叙情詩の上にのみ十分の發達を遂げしむるに若かずと信ず」と。あたかも『新体詩抄』以来の新体詩の総括の上に導き出したかのような、自信ありげな迷いのない言い振りである。それもこれも一にかかって自作に裏切られないからである。しかし救われもしない。もともと救われる必要がないからである。

はじめが違う。詩が違う。実際、「解釈」以前である。それでも「以前である」が詩論となっていてはどうにもならない。はじまらない。疑問に思うのは、その自信である。那辺にあるのか。彼等にあるだろうか。違うのではないか。「日本語」にあるのではないか。しかしそれも気がついていない。拘るのはもっぱら上辺だけである。それを含めて自信である。

かくして独歩は、「叙情詩」に自ら詩人であることを強く自覚し、外に向かっても自己規定を躊躇わない。そして「序」を次のように締めくくる。「歌えよ、吾國民。新躰詩は爾のものとなれり。今や余は必ずしも歐詩を羨まず」と。「歌えよ」とは自らへの掛け声である。詩人(「叙情詩人」)の自覚と自負が言わせたものである。

かくして「歐詩を羨まず」の誇らかな詩情に支えられた詩人の誕生となる。獨歩だけではない。『抒情詩』中の各詩人に共通した自覚(矜持)である。ここに一方的に更新された詩人がある。あるいは更新された詩人の誕生がある。再出がある。



国木田独歩

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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