現代詩の難解さについて
- 「現代詩手帖」07年12月号の座談会で、久谷さんの詩集『ふたつの祝婚歌のあいだに書いた二十四の詩』が取り上げられていましたが、そこで「難解」ということがいわれていました。現代詩の難解さについては、これまでいろいろと語られていますが、久谷さんにとって、現代詩の難解さとは? 教えてください。(匿名希望)
ご質問の件ですが、僕は基本的にこの世に、
「わかりやすい」詩というものは、実は存在しないのではないかと
考えています。
やや乱暴なまとめかたですが一般的に、「むずかしい」詩というのは、
・あまり使われないような言葉が頻出する
・日常の言葉のやりとりではお目にかかれない意味で言葉が使用されている
・果たしてこれは言葉なのか?と疑問を抱く程度にまで言葉や文脈が破壊しつくされている
以上の三点のような要素を備えた詩を指すことが多いようです。
それでは、一方「わかりやすい」詩というのは一体何を指すのでしょうか?
ためしに上記の「むずかしい」詩の定義をあべこべにしてみれば、
・平易な言葉で書かれている
・日常の言葉のやりとりにおさまる、あるいはそこから想像しやすい延長線上の意味で言葉が用いられている
・言葉や文脈の破壊がそれほど深く行われていない。行われていたとしてもやはり日常的な言葉のやりとりの延長線上で何を言っているのか、あるいはどのような理屈でもって言葉が破壊されたのかを想像するのがたやすい。
とでもなるのでしょうが、
果たしてこのような条件をそなえた詩が
本当に「わかりやすい」のかというと、僕は疑問を感じます。
いつも日常生活で出会っているはずの言葉や
またそのような言葉がつくりだす論理のながれが、
なぜこんなにも「詩」というかたちの中でゆたかな手ざわりを持つのだろう、
と考えはじめると中々答えが出しにくいからです。
目の前の「詩」のなかで何が起こっているのか言葉にしてみても、
どこか大事なところをとりこぼしてしまう。
「わかりやすい」といわれる詩であろうと、
あるいは「むずかしい」といわれる詩であろうと、
「すぐれた」詩には共通して、そんな「むずかしい」ところがありますね。