愛しているのにわからない
愛しているからわからなくなる
わからないから愛している
・・・・・・

愛する
という行為の隣には
おおきな謎が転がっています

もちろん
人がことばを愛する あるいは
ことばに人が愛されるときにもまた
謎は生まれてくるのです

このささやかなスペースは
謎を解くための手がかりを
ひろいあつめる場ではありません

謎にじっとむきあうための
手がかりに出会える
そんな「相談室」をつくってゆきたいとおもいます

あなたのみつけた
ことばと人のあいだの謎を
どうか おしえてください

相談員 久谷雉
久谷雉(くたに きじ)

1984年、埼玉県深谷市に生まれる。
「詩の雑誌midnight press」の「詩の教室 高校生クラス」投稿 を経て、 2003年、第一詩集『昼も夜も』をミッドナイト・プレスから出版。 2004年、第九回中原中也賞受賞。

詩だけは駄目な私でも詩を楽しむことはできるでしょうか?
初めまして。
私は31歳の男性です。
私は子供のころから読書が好きでたくさんの本を読んできました。
10年前から読書の幅を広げようと詩集を読み始めました。
しかし、物語を読むときのような心の高揚を覚えられません。
逆に他の人のように感動出来ない自分に対してイライラしてきます。
子供のころのように『三国志』や『西遊記』などを読むと今でも躍動感に心が躍り、O・ヘンリーの短編を読むと人の心の温かさに目が潤むことがあります。
それなのに詩だけは駄目なんです。
こんな私でも詩を楽しむことはできるでしょうか?
(I・K)

お答えします。身もふたもない結論のように受け取られてしまうかもしれませんが、詩ってそんなに無理をして読まなくてもいいものなんじゃないかな、と僕は思います。乱読しているうちに、いつか自分にしっくりとくる詩にめぐりあえるのかもしれませんが、そのようなことが必ずあるかどうかは保証できません。小説や物語を読んで得ることができるものと、詩歌を読んで得ることができるものが決しておなじであるとはいえませんが、それぞれの能力や与えられている時間などによって多少の差があるものの、人間が一生のあいだに理解することができる「情報」の量や質には限界があります。

特に現代のような、「情報」の発信の技術や、発信されたものを保存する技術が大変に進歩した――またそれゆえに「情報」がインフレを起こしている時代には、自分がどのようなジャンルの「情報」と深く対話しうるかをきびしく見定めておく必要があります。この「見定め」をする段階で様々なジャンルに触れてみるという努力は大事だと思いますが、オールラウンドな、すこし昔の教養人のように何でも「極める」ことのできる人間になろうとするのははっきり言って、現実的な選択ではなくなってきているような気がします。

詩がわからないという人には、無理して詩を読んでもらうよりもむしろ、とことん詩以外のジャンルにむきあって、自分の中をゆたかにしていってほしい。またその体験で得たものを本の感想を友達同士で話し合うようなダイレクトな形でもいいし、あるいは自分の日々のいとなみにこっそり生かしてみるような遠回りな形でもいいので、自らの外にどんどん広げていってほしいものです。いや、特に自覚などをしなくても、自分が触れてきた「情報」やそれから得たものは自然に日常生活をとおして、他人に影響を与えてしまうものかも知れません。また自分自身も、決してある「情報」に直接接触することはなくても、それに触れあうことのできた誰かを通じて知らず知らずのうちに影響を受けてしまっていることがあるのではないでしょうか。またその「情報」というのが他人の読んだ「詩」である可能性も十分にあり得るわけです。

さらに小説や物語自体、書き手が触れてきた様々なもの――その中には書き手が読んだ「詩」が含まれていることもあるでしょう――と無縁ではいられません。一篇の小説のうしろにはたくさんのジャンルの「情報」の記憶が控えています。またそれら一つ一つのうしろがわにも無数のものが控えていて、さらに・・・・・・といった具合に限りのない影響の数珠つなぎが構築されていることでしょう。書き手の認識のフィルターをくぐりぬけてきたもの、という留保はつけなければなりませんが、一つの作品に向きあうということは同時に無数の「情報」に触れることに等しいのです。

どうか自分が深くむきあうことのできるジャンルとつきあう時間を大切にしてください。またその時間から生まれたものがいつのまにか伝言ゲームのように人から人へ影響して、その結果、誰かの手によって絵になったり音楽になったり、あるいは詩歌になることだってあるでしょう。そういう風に考えてみると、この世に「詩人」でないものなんて存在しないのかも知れませんね。