愛しているのにわからない
愛しているからわからなくなる
わからないから愛している
・・・・・・

愛する
という行為の隣には
おおきな謎が転がっています

もちろん
人がことばを愛する あるいは
ことばに人が愛されるときにもまた
謎は生まれてくるのです

このささやかなスペースは
謎を解くための手がかりを
ひろいあつめる場ではありません

謎にじっとむきあうための
手がかりに出会える
そんな「相談室」をつくってゆきたいとおもいます

あなたのみつけた
ことばと人のあいだの謎を
どうか おしえてください

相談員 久谷雉
久谷雉(くたに きじ)

1984年、埼玉県深谷市に生まれる。
「詩の雑誌midnight press」の「詩の教室 高校生クラス」投稿 を経て、 2003年、第一詩集『昼も夜も』をミッドナイト・プレスから出版。 2004年、第九回中原中也賞受賞。

日本の詩の到達点と今後について
こんにちは。よろしくお願いします。
 「現代詩」といっても「近代詩」と比較されたものが多く、「現代詩」といわれているものがすでに「現代」ではないのではないかと感じているのですが、それならば「ほんとうの現代詩」と問われれば、それを象徴するような詩の出来事がぼくにはわかりません。
もう21世紀も10年を過ぎ、2010年代の詩の風景はどのようなものだと思われますか。その風景は、1990年代、2000年代の何を変え、何を残していくかと思われますか。
抽象的な質問で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。(Kondo)

べつに文学に限ったことではなく、どのジャンルにも言えることなのですが、使うのにはなはだ慎重さを要する言葉というのが詩の世界にもあります。「モダニズム」とか「内在律」とか、明確な定義をたやすく示すことのできない言葉は、挙げてゆけばきりがありません。そして、恐ろしい(!)ことに「現代詩」というジャンルそのものの呼び名も、その内に含まれてしまうのです。

僕自身、居酒屋等における立ち話やツイッターでの雑談にちかい書き込みで便宜的に――「現代詩手帖」や「詩と思想」などに載るような「詩」という程度の漠然とした意味で――この言葉を用いることは多いのですが、ある程度しっかりと詩論を書くときにはやはり気を遣わざるを得ません。時間が流れている限り、「現代」というものも可変的である。いま書いているこの文章が数十年後の読者の目にふれたとき、果たしていまの自分が「現代詩」と呼んでいるものが、彼らにとっての「現代詩」なのだろうか――などということを考えてしまいます。実際に数十年前の詩の解説書を手に取ると、島崎藤村や萩原朔太郎が「現代詩」として扱われたりしています。とはいえ、おそらく未来の読者(いるのかどうかすらあやういですが)も、目の前のテクストに記されている「現代」が書かれた当時、つまり過去においての「現代」であるという前提のもとに読んでくれるとは思うのですが。

それならばなぜ、「現代詩」という言葉を安易に用いることに抵抗を感じてしまうのでしょうか。それは、「現代詩」が「現代に書かれた詩」の略称であるだけではなく、「現代であるからこそ書かれ得た詩」の略称でもあるというニュアンスもいつのまにやら含んでいるからに他なりません。そこで「現代詩」の定義を後者にウェイトを置いて考えた場合、すぐに浮かびあがってくるのが「現代」とは何なのかという疑問です。当然、この疑問に対する答えは一つに絞れなどしないでしょう。また、過去のように充分な時間的距離がないゆえに、同時代の状況をできるだけフェアに測定するのは非常に難しいものです。「現代」が「現代」と名付けられ相対化された途端に、すでにそれは「現代」ではなくなっているのではないかというKondoさんが抱いているような考え方。あるいは自分が「現代」に固有な問題であると感じているものは、視点を少し変えればたちまち過去にも存在していた問題に変わってしまうのではないかという考え方。「現代」という言葉を冠にしたジャンルについて考えるときは、常に様々な不安がつきまといます。

というわけで、2010年代の詩が果たしてどうなるのか、という大局的な問題について答えるのは中々難しい。いまのことがはっきりしないのに、これからのことなど予想が立ちません。また、いかなる作品やできごとがあるジャンルの歴史の流れを決めてゆくのかについて、同時代の評判というものも実はそれほどあてにはなりません。たとえば2000年代のはじめにインターネットが詩を変えるかも、といった類の言説が流行ったこともありましたが、いまのところは同人誌等によってすでに形成されてきたのと本質的に変わらない共同体の再生産に終始しているような気がします。未知の人と出会いやすいなどといった恩恵には僕自身もあずかってはいるのですが、詩が世の中に流通するにあたっての構造を根本から変えたとはとても思えないのです。もともとネットで詩を書いていた人が紙媒体に「越境」して脚光を浴びる、ということが近年たびたび起こっていますが、おそらくこれもネットの詩の世界がそれ自身で自立できてはいないことを物語っているのではないでしょうか。2010年代の詩の行方を決めるものはすでに動き出してはいるのでしょうが、それが何だったのかはっきりするのは2030年代や2040年代になってからでしょう。