「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」とかね。こんな名前を付けた童話作家はいないよね。あとは杉の木を「ZYPRESSEN」(サイプレッセン)なんて、ドイツ語で詩行にいれたりする。こういう言葉の命名や使い方によって一種の異質な空間が生まれる。そのまま岩手の土地の名を使っては賢治の時空間が生まれない。そのことをよく分かって書いてます。これは西脇順三郎や石川啄木にも通じるんです。独特の言葉の使用法によって、ある場所や空間を別の空間に移し替える力があります。

更に加えると前から気になってるのは賢治の色彩語の使い方。「青」という言葉をよく使います。「雲の上が青く光っている」とか、青光りですね。さっきも少しふれた『春と修羅』の冒頭、

 

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 

ここにも「青い照明」とある。今日あとで朗読します「永訣の朝」にも、

 

あああのとざされた病室の

くらいびやうぶやかやのなかに

やさしくあをじろく燃えてゐる

わたくしのけなげないもうとよ

 

「あをじろく」とあります。これを単なる比喩や修辞ではなく、賢治には実際に見えたんじゃないかと思うんです。賢治の水彩画に「日輪と山」というの

 

がありますけど、それも山が青光りしている。おそらく賢治には生命の現象として「青」が見えていたと思います。

 阿弥陀経のなかに「青色青光(しょうしきしょうこう)黄色黄光(おうしきおうこう)赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)白色白光(びゃくしきびゃっこう)」という極楽世界を描いた言葉がありますが、私たちが生きるこの世界、あるいは宇宙のなかで命あるものは青く光る。青色青光(しょうしきしょうこう)です。賢治はこの「青光り」を詩人の直感で見ていて、仏法で説かれていることは本当だと思ったに違いない。こんなこというと神憑り的で変ですが、詩人は昔から「幻視者」でもあり、賢治にはそういう呪術的巫女的なところがあったと思います。

 おや、猛烈に喋り出しちゃった。時間がどんどん過ぎてしまうね。さて次は賢治が働いていた東大赤門前の印刷所文信社の跡地に行きましょうか。確か「大学堂眼鏡店」になってます。

 

        

 東大赤門前・文信社跡

 

あれ、ここに大学堂眼鏡店があったんですが……ナチュラルローソンになっちゃった(笑)。

赤門が目の前です。賢治も当然、東京帝国大学を意識したはずですね。果たして賢治は劣等感を抱いたのかどうか、その心中はどうだったのでしょう。たとえば当時は石川啄木は帝国大学を目指して上京してきている。賢治は啄木を尊敬してましたし、賢治の周辺にも高校の先輩に帝国大学に行く人がいたんですね。もしかしたら賢治のお父さんは長男の賢治に帝国大学に行かせたいという思いがあったかもしれません。

ここで賢治とお父さんの政次郎との確執が浮上します。その頃の賢治の短歌を一部紹介します。(賢治の短歌と詩作品とは密接な関係があることを以前論じたことがありますが、ここでは触れません。)

 

粘膜の赤きぼろきれ のどにぶらさがれり かなしきいさかひを父とまたする

 

職業なきをまことかなしく 墓山の麦の騒ぎをじつと聞きゐたれ

 

どうでしょうか。若き賢治の悶々とした思いが伝わってきますね。

最初の歌の「粘膜の赤きぼろきれ」というのはアデノイド肥大や蓄膿症を病んでいた頃の歌ですね。蓄膿症というのはなかなか、ものごとを集中して覚えられないんです。私自身も蓄膿症の苦い経験があります。賢治は子供のころはあまり勉強が身につかなかったのでしょう。

宮沢家は岩手では名家で、親戚筋の女性は日本女子大に行くほどのエリート一族です。妹のトシ子も非常に優秀で日本女子大に進みました。でも賢治は蓄膿症の影響もあって子供の頃から勉強をあまり熱心にしなかった。盛岡中学での卒業成績は八十八人

中六〇番。大正三年ですね。卒業後、発疹チフスの疑いで二カ月ほど盛岡市内の病院に入院し、入院中に看護婦に恋愛感情を抱いたりします。退院後も勉学に励む気がない賢治を見て政次郎は上級学校への進学を認めなかった。これが賢治の勉学や父親への反発となった。

当時は家父長制が根強くありますから、父親の力はたいへん強かった。長男である賢治に対する父親の期待は大きかったと思います。よく父親のプレッシャーが強ければ強いほど息子はひねくれて別の道に行くことがありますが、賢治もまた家が質屋であることに嫌悪を抱き、未来に絶望していた。そんなとき島地大等編『漢和対照 妙法蓮華経』を読み感動し、法華経に開眼する。直接この島地の法話を聞きにも行ってます。宮沢家は浄土真宗への信仰が篤い家でしたので、父親とは宗教上も対立。喧嘩ばかりしていたようです。その後、高校を優秀な成績で卒業後、賢治は家出して東京鶯谷に本部があった国柱会での法華経の布教活動にのめり込む。

あ、いま思い出しましたが、賢治の童話に「家長制度」という短いものがあります。当時の家父長制を戯画化したような短編ですが、そこにも賢治と父親との確執が読み取れますね。でもお父さんも立派な人だったと思いますよ。後年賢治の願い通りお父さんも法華経に改宗します。息子の思いに身を委ねたことになりますね。

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